八丁掘から佃を散歩!住吉神社や赤い橋 江戸の気配の町をご紹介

佃島 ふつう散歩

この記事では、八丁堀からスタートして、湊を通り、佃島まで、中央区の町を散歩した様子をご紹介します。

散歩したのは、2023年秋の土曜日。新しい図書館である本の森ちゅうおう大八丁堀展を見に行ったのがきっかけ。八丁堀展を見たら、町への興味がわきすぎて、繰り出した散歩。八丁堀佃島と、江戸の名残が残る町を一気歩きました。

図書館の展示を見て、いきなりスタートした散歩。計画を立てていなかったので、後から考えると、見どころを抜かして歩いた感も。それでも、そこここに江戸の気配が残り、特に佃島の空気感は独特で最高。

  • ひとりごはんポイント★★★☆☆ 
    中央図書館のカフェは、図書館だけあってひとりに快適。佃島でのひとりごはんにもチャレンジしたかった。
  • トイレポイント★★★★☆
    中央図書館と月島駅くらい。でもその距離は1kmくらいなので、問題なし。

八丁堀で神輿(みこし)や仏具をつくる 秋山三五郎商店

秋山三五郎商店

初めて降りた八丁堀駅。本の森ちゅうおうを目指して、鈴らん通りを歩きます。
近くの湊町などに入港する船員が買い物をする繁華街として栄え、関東大震災後には、銀座以上の繁華街だったそう!古くから栄えていた感じ、今も残っています。

屋根の傾斜もいい感じの秋山三五郎商店
「この店の感じ、ただものではない」と調べたら、江戸末期創業の神仏具の店。神輿や仏壇、仏像を作っています。初代秋山三五郎さんは、重要文化財の神田多町の神輿を作ったのだそう。

このあと本の森中央で見た「大八丁堀展」で、この店のみなさんの写真が展示されていました。

八丁堀 京華スクエア 明治時代の小学校

八丁堀の与力・同心組屋敷跡の看板。
この建物も風格があって気になりました。

あとで調べると、この建物は京華スクエア
明治34年創立の小学校が閉校になったあと、京華スクエアに生まれ変わったそうです。早稲田大学のエクステンションスクールや、シルバー人材センターなどがはいっています。写真を撮った日は、ワクチン接種会場になっていました。

本の森ちゅうおう

本の森ちゅうおう。
中央区の新しくできた話題の図書館。親子も大人も本を持ってうれしそう。

本の森ちゅうおうのカフェ アンペア 

入口にカフェ アンペアがあります。図書館のカフェは、ひとりごはんの聖地!
テラス席があるのもうれしい。
バタートーストとコーヒーをいただきました。

写真はコーンだらけですが、実際の景色はもっとよかったです。

大八丁堀展 本の森ちゅうおう

お目当ての大八丁堀展へ。
「八丁堀って、同心が捕物してそうな?」というイメージでしたが、展示を見たら、いろいろわかりました。

八丁堀は、江戸時代初期に埋め立てられた土地。与力や同心の組屋敷が建てられるようになりました。

舟便のために、隅田川につながる堀が作られ、その長さが八町だったことが、八丁堀の名前の由来だそうです。この堀は、現在の桜川公園になっています。本の森ちゅうおうの真向かいが桜川公園だから、丁度ここは八丁堀の上ってこと?

こちらは、近世の江戸を描いた最も古い絵図だそうです。一番下の堀に「八丁堀」の文字が!
かわいい地図で、思わず笑顔になってしまいました。

昭和25年の地図と、現在の地図。昭和30年代~40年代に亀島川以外は埋め立てられたのですね。
八丁堀駅から歩いてきた道は、きれいな碁盤目状で、多分江戸時代に作られた道のまま。水路の町だった面影はないけれど。

本の森ちゅうおうは、6階建ての新しい図書館。今回の展示をした郷土資料館もはいっています。東京や中央区の本が、すごくそろっていて、お散歩する人必見の場所です。
テラスや屋上もあり、明るくて、開放感いっぱいでした。

入船町と湊町を散歩

本の森ちゅうおうから歩きだしたのは、そこで中央区の発行するマップをたくさん手に入れたせいもあります。佃島まで歩いてみることにしました。

この写真は入船町。水辺の町らしい名前。そして、細く長い道。

入船町湊町でとった写真です。
入船の名は、西側に入船川があったことからつきました。
湊は、商船が隅田川から上ってきて、江戸に物資を運び入れる江戸湊として栄えたところです。

「銀座食糧販売」の看板が出ていました。物資を運んでいた町っぽい。

佃島渡船場跡

鉄砲洲通りを南に歩き、大きな道を佃大橋めざして歩きます。
結構来た気がしますが、本の森ちゅうおうからは、ほんの数百m。

佃大橋の手前に、佃島渡船と刻まれた石碑が建っていました。

佃島は、大阪の佃島の漁師たちが、隅田川河口付近の約180m四方を拝領し、埋め立てて築いた島でした。その直後から、交通手段として島民による手こぎの渡し船がはじまりました。

島民の交通手段だけでなく、佃島に祭り見物などにいく人々にも使われた渡し船。運営は、明治16年に大倉組に、大正15年に東京都に移りました。東京都が渡船の開始を記念して建てたのが、今ある石碑だそうです。

隅田川には、多くの渡船がありましたが、最後に残ったのが佃島の渡しでした。佃大橋ができた昭和39年まで存続しました。

佃大橋を、佃島に向かう途中。
佃島の住吉神社の和の雰囲気と、バックのビル群のコントラスト。

佃島のつくだ煮の店

佃島といえばつくだ煮。老舗がのぼりを出していました。

路地の中にも佃煮の店「つくしん」がありました。
江戸時代、大阪から移ってきた漁師の保存食だったそうです。

佃まちかど展示館

佃まちかど展示館のウィンドウ。海を渡る神輿や盆踊りの写真に、とても引き込まれました。
中にはいれば、神輿や獅子頭が見られたみたい。見逃しました。

住吉神社 佃島の氏神

住吉神社は、佃島・月島の鎮守。鳥居の中央にある陶製の扁額は、区の有形文化財。
緑色の枠に青の文字がなんとも粋です。

道の向こうに住吉神社の鳥居。この景色いい!

住吉水門です。

石川島灯台跡と人足寄場

石川島灯台跡です。石川島の灯台を復元したもので、今は、公衆トイレも兼ねています。
看板によると、1866年に、灯台の前身となる常夜灯が作られました。これは、石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)奉行の指示で、人足が工事したもの。灯台ができて、漁師たちは喜んだそうです。

石川島人足寄場って、なんなのでしょう?
中央区観光協会特派員ブログにわかりやすい解説がありました。

石川島人足寄場は、1790年、松平定信が作った無宿(むしゅく)収容所のことだそうです。
無宿とは、罪を犯したり、戸籍から外されたりした人のことで、「労役に服しながら更生と社会復帰を目指す施設でした。油搾りや、木工、藤工、鍛冶工、味噌造りなど、さまざまな職業訓練を行い、作ったものの売り上げは、寄場の経費、人足の貯金などになっていたそうです。

現在の刑務所の原型とも言われていて、すぐれた取り組みだったと評価が高いと書かれていました。

想いがけず、人足寄場のあとを見て、先に進みます。灯台の裏は、佃島公園になっています。そこを過ぎると水路。

佃小橋と日の出湯

佃小橋を渡ります。日の出湯 大栄マンションって、マンションに日の出湯の看板が埋め込まれている!

さんたつby散歩の達人のサイトに佃島の特集がありました。

日の出湯は、昭和20年代創業で、1983年に今のようなマンション銭湯になった。
この高いのは、看板ではなく煙突!重油で湯をわかした名残りだそう。

佃住吉講の看板

佃住吉講の看板には「徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱木が埋設されておりますので、立ち入ったり掘り起こしたりしないで下さい」と書いてあります。
う~ん、意味がよくわからない。

答えは、佃島住吉講HPに。こんなことが書いてありました。

住吉神社の大祭で使う大幟の柱と抱木(だき)を埋めていたんだ。それは、掘り起こしてはだめですね。

このあたりは、佃島の中でも、最初に埋め立てて人が住んだエリア。
ものすごく濃厚に、歴史が詰まっていて、独特の空気が流れていました。
今までここに来なかったなんて!

風情のある道。

通っていいんですか?の細道

佃島砲台跡

最後に見た佃島砲台跡。作られた時は、海の上だったのでしょうが、今は完全な町の中。

江戸時代末期に、外国船渡来に対処する防衛施設として作られた。明治20年には、この砲台を起点として月島の埋め立てが進められ、姿を消したそうです。

ここから月島駅はすぐ近く。
町は、ハロウィンの衣装の親子であふれていました。
このあたりは、高層マンションが増えて、若い家族が多いエリアです。

この日は、江戸っぽい散歩でしたが、そこから戻ってきた気分で地下鉄に乗りました。

この記事では、八丁堀からスタートして、湊を通り、佃島まで、中央区の町を散歩して見つけた、見どころをご紹介しました。

八丁堀や湊町もですが、特に佃島にはいると、江戸時代からの歴史が小さなエリア内にぎゅっと詰まっている印象でした。お祭りも盛んな地域なようなので、スケジュールを合わせて散歩するのもよいのではないでしょうか>

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